歴史

天文研究部の歴史


 1949年に天文同好会が発足し、翌年の1950年に正式に学友会研究部天文班となった。 1952年に天文研究部と改称し、名称は今に至っている。
 発足の年1949年8月、東京天文台の流星写真観測の計画があり、 これに協力するため当時の部員によって流星の肉眼観測及び 写真のガイドが川崎市西生田小学校旧校庭で行われた。 この流星の写真観測は東京天文台と6.9kmほど離れた西生田との2点観測で、 日本の流星観測史上画期的な試みであった。 以来、天文研究部は流星観測を柱として発展していく。
 1954年、旧1号館屋上に部室が建設され、さらに1955年には部室横に15cm反射赤道儀が完成した。 黒点観測や掩蔽観測をはじめ、人工衛星の観測、八丈島金環日食遠征など、 観測目標に事欠くことなく観測活動は盛んになっていった。 流星観測を柱に天文研究部は観測の幅を広げ始め、現在に続く多くの活動の基礎が築かれた。 1960年には初の夏合宿が乗鞍で行われた。

 1961年から部員が急増しサークルの規模が膨れ上がる。 そして1963年、天文研究部は北海道知床半島羅臼岳に26名の観測隊を派遣し皆既日食の観測に成功。 その写真は多くの雑誌、図鑑などに掲載された。
 このころ夏合宿は駒ヶ根で行われており、1964年からは観測を主体とする合宿になった。 この合宿で観測目的ごとに分けた班活動が始められ、これは後の班活動の母体となっていく。 同年4月にはOB会が発足。 7月には天文研究部の呼びかけで大学天文連盟が発足、大学天文サークル間の交流が始まった。
 1965年、1号館屋上に地学準備室が新築され、附属の一室が天文研究部の部室に提供された。 同時に小さかった観測室も大きくなりカマボコ型ドームも新しくなった。 旧ドームは部員の手で修理された後、野田キャンパスのグラウンドに運ばれ、野田観測所となった。
 合宿で始まった班活動には批判的な意見も多かったがしだいに普段の活動として定着していき、 1968年頃からは批判も少なくなってきた。 1967年には「研究報告」が創刊された。 1969年、駒ヶ根での夏合宿を終えた下山バスの車内で、 アポロ11号の人類初の月面着陸成功のニュースが伝わり、皆思わず歓声を上げた。

 大学紛争によりサークル活動の停滞を余儀なくされ、一時は研究観測活動の維持は困難を極めたが、 安保騒動が一段落すると天文研究部は急に観測の意欲を取り戻し、観測機器の整備が次々と行われた。 1971年には研究的性格の機関紙「Milky Way」が創刊された。 内容は変わってしまったが、Milky Wayは現在も年に一号発行されている。

   天文研究部の日食観測は1958年八丈島、1963年北海道の国内遠征に引き続き、 1972年のアラスカから海外遠征が始まる。 1973年のアフリカ日食には現役、OB合わせて30名がケニアに遠征した。 日食観測はその後、1974年、1976年の二度のオーストラリアへと続いた。
 また、1973年のコホーテク彗星は天文研究部が日本初の写真確認者となり、 撮影した写真は朝日新聞の第一面を飾った。

 理大祭への出展は毎年続けていたが、1975年からはこれとは別に 喫茶店「Adieu」が始まった。 Adieuには天文研究部の4年生が出展する。 その年の4年生ならではの趣向を凝らしたメニューを提供している。 そしてその売り上げで数多くの機材が部に寄贈されている。 1972年入学の代により始められたAdieuは現在まで続いている。

 天文研究部創立の由来となった東京天文台による流星の2点観測は、 1951年の西生田観測所の開所と共に本格的に始められた。 当時は部員が住み込みで観測をしており、その住人は数年ごとに代わっていった。 精力的に観測を続け結果をまとめていき、次々と多方面に報告していった。
 1951年に西生田香林寺境内に作られた西生田観測所の小屋は、1954年から箕輪先生のお宅の敷地内へ移転した。 以来20年の長きにわたり天文研究部を育てた観測小屋は、周辺の宅地開発によって観測条件が悪化、 1974年2月についに取り壊された。
 西生田観測所の開所以来、天文研究部では流星観測が盛んに行われた。 それは次第に写真流星の軌道計算へと発展した。 1972年には位置測定用プログラムが完成し、 その後日心軌道の計算プログラムも完成した。 プログラムは大きく4回の改訂を重ね、ますます精度が向上した。 1976年、大学天文連盟流星分科会が母体となって南関東流星観測者集会が開催され、 さらに翌年には関東写真流星ネットワークに発展した。 その結果、関東地区で撮影された流星写真はすべて理大に集まり、 理大の電子計算機でプログラムによって解析されるようになった。

 1977年に旧1号館の取り壊し及び新校舎の建築が決定し、 天文研究部は工事期間中の立ち退きを余儀なくされた。 1978年2月、旧1号館の第一次取り壊しに伴い部室とドームを屋上西側に移動したが、 大学側から新部室保障の確約は得られなかった。 この部室問題と野田観測所の空の悪化を意識して、 1978年秋頃からどこか空の良い土地に観測所を持とうという動きか起こり、 1979年に迎える創立30周年に絡めて盛り上げようと、30周年記念委員会が設置された。 新部室交渉はかなり難航し、屋上部室の獲得はかなり難しい情勢となったが、 関川先生が当時の橘高理事長に強く働きかけてくださったことが大きく、 2号館屋上の体育用具室を頂けることになった。 1980年7月に新1号館前の仮部室棟に移転、そして1982年4月に2号館屋上に移転した。

   またこの頃、老朽化著しい野田ドームの改築が1978年12月から1979年2月にかけて行われた。 この作業の模様は天文雑誌に紹介され、 新ドームの写真は誠文堂新光社刊「手作り観測所作例集」の表紙を飾った。
 2号館屋上のドームは野田観測所ドーム製作の経験を活かし、 1980年10月から11月にかけて部員の手により製作された。 この製作の模様は8㎜映画として記録され、理大祭で上映され好評を博した。 この映画は「ドーム映画」と呼ばれている。

 一方、1978年に設置された30周年委員会は新観測地探しを開始した。 外房、山梨、静岡と、捜索は広範囲にわたった。 1981年に現千葉県いすみ市の小高い山の上に観測所を建設することを決定。 借地契約を結び、東小高天体観測所が開設された。 この年の役職改選で、それまでの特別役職「30周年委員会」を常設の「建設部」に改組した。 現在でも東小高観測所担当の役職は建設部と呼ばれている。
 1982年の春からプレハブの建設が始まった。様々な困難を克服し、 同年10月に自作のプレハブが完成した。 観測所計画提唱から5年、大事業であった。
 その後、20㎝反射赤道儀の購入、同望遠鏡を格納する小屋の製作と、 施設的には順調に発展した。 そして創立40周年の1989年、OB会特別会員の坂部三次郎氏より、 31㎝反射赤道儀及びスライディングルーフの寄贈を頂き、 観測所として一定の完成を見た。 1991年11月には坂部氏を招いて開所式が行われた。

 1980年代から夏合宿は入笠山が定番となった。 入笠山では1975年、1978・1979年、1981年~2006年の夏合宿が行われた。

 1980年代になっても日食観測は盛り上がる一方であった。 1980年アフリカ・インド(2隊)、1983年インドネシア・ニューギニア(4隊)で OB・現役が多数参加の大規模な日食観測隊が組織された。 1980年の観測隊では二点観測を実施し、アマチュアとして世界で初めて コロナ微細構造変化の観測に成功した。 また1983年の4点観測実施も世界初の快挙であった。
 また、1986年春にはハレー彗星観測のため、多数の現役・OBが海外へ遠征している。 現役では有志でSCOTなる観測隊を組んでオーストラリアへ遠征した。
 1987年には沖縄で金環日食が見られた。これには現役が単独で観測隊を編成して 遠征した。
 そして1991年の皆既日食ではハワイとメキシコに日食観測隊を送り、 現役とOBの計96名が遠征した。 天文研史上最も大規模な観測隊であったが、それ以降20年もの間、 再び日食観測隊が組織されることはなかった。

 1990年には二部研究会への加盟を果たした。 天文研究部は一部生と二部生の合同サークルであるが、 それ以前は二部生が部長になれないという問題があった。 二部研究会への加盟により、天文研究部は全ての面で全部員が平等となった。 そしてこの2年後に初の二部生の部長が誕生した。

 完成後10年以上が経過した神楽坂ドームは老朽化が進んでいた。 そんな中1992年5月にドームのスリットが風で吹き飛ばされるという事態に発展した。 これにより1992年8月よりドームの大規模な補修作業が行われた。 この工事により外装がステンレスからFRPとなった。 工事は1993年3月に完了した。
   東小高観測所では1997年3月にプレハブ解体作業が行われ、 その後約1年半にわたり観測所ではテント生活が続いた。 新プレハブは1998年9月に完成した。

 21世紀になって最初の転機は2007年であった。 この年、東小高観測所の利用について多くの問題点が露呈した。 そして新たな制度が制定され、現在はこれにより円滑に運営がなされている。
 この問題は夏合宿にまで波及し、この年の夏合宿が中止となった。 長年続いた入笠山夏合宿はこれを持って終わった。 毎年行われてきた、木をその場で切って一本燃やす特大ファイヤーもなくなった。

 2009年7月には日本出版クラブ会館にて創立60周年記念式典が行われた。 講演会と立食パーティーの二部形式で行われ、 講演会では世界の最前線で活躍するOBのお話を伺った(電波天文学・プラネタリウム・日食観測)。 立食パーティーには100名以上が参加し、盛大な式典となった。 また、創立60周年記念誌「飛跡6号」が発行された。
 このすぐあと7月22日、皆既帯が日本の薩南諸島を通る皆既日食が起きた。 現役3名、OB70名の遠征が確認されており、同年9月に理大にて合同報告会を開催し約70名が参加、 同年12月には「2009年7月22日皆既日食の記録」及び「過去のアーカイブ」からなるDVDが発行された。 これが起点となり、1991年ハワイ・メキシコ以来の日食観測隊の編成が期待されるようになる。

 その頃、天文研究部には再び部室移転の話が舞い戻ってきた。 大学は新2号館建設計画を立て、2号館をはじめとする周囲の校舎を取り壊す方針であった。 2005年前後から部室とドームの移転先の協議が始まったが、その決着には5年を要した。
 しかし新2号館計画は2009年には2・3・7・8・9号館の改修計画へと変わり、早速3号館工事が始まった。 2009年9月、ついに部室の移転命令が下され、同時にドームは年度末まで立ち入り不可となった。 すぐに2号館の改修工事が始まり、屋上部室は取り壊された。 仮部室は3号館地下及び近藤ビル(飯田橋五叉路付近)となった。 2010年4月にドームの使用はできるようになったものの、 部室の移転先は一向に大学からの回答がもらえずにいた。 2010年10月、ようやく部室の移転先が2号館5階に決まり、 同年11月に全ての移転作業が完了した。

 2010年8月にはドームの内装整備が行われた。 それまでは128㎜屈折鏡が主鏡として据えられていたが、 同年寄贈された赤道儀を自動導入改造し、 同じく寄贈された25㎝カセグレン鏡及び前述の128㎜屈折鏡を同架させた。
 同年には東小高観測所の大規模な整備も行われた。 10月に倉庫(通称ホワイトハウス)の再建、 12月にはプレハブの再建工事が行われた。

連続食分写真

1963年 羅臼岳皆既日食、連続食分写真


初代ドーム

1962年 旧1号館屋上ドーム


野田観測所

1967年 野田観測所の開設


ファイヤー

1968年 夏合宿のファイヤー


旧部室

1970年 旧1号館屋上


ファイヤー心棒

1978年 夏合宿ファイヤー心棒切り出し


野田ドーム製作

1979年 野田ドームの再建


ドーム完成

1980年 2号館屋上ドーム完成


観測所坂道

1980年 整地したばかりの観測所へ向かう坂道


初代プレハブ

1987年 新歓合宿の帰りに、東小高観測所初代プレハブ


沖縄金環

1987年 理大祭、沖縄金環日食


開所式

1991年 東小高天体観測所の開所式


ドーム改修

1992年 2号館屋上ドーム改修工事


ドーム改修

1999年 東小高観測所第2代プレハブ


創立60周年記念式典

2009年 創立60周年記念式典

天文研の歌


 1961年の夏合宿で初めて歌われたそうです。某家電量販店の曲に合わせて歌います。

一  パット夜空に咲きほこる 牽牛織女の物語
    俺も一花咲かせよと 入ったところが天文研

二  水星の軌道じゃないけれど 不思議な力が働いて
    時どきよろめく我が心 アインシュタインも分らない

三  金星まくらに昼寝すりゃ うき世の愁いもきえはてて
    夢にえがくは唯一人 永遠に愛する君だけさ

四  火星を二人で散歩すりゃ ファボス・デイモスまねをする
    もえる唇合わせても 地球の奴等にゃ分らない

五  エロスは愛の小惑星 二人の心を結ぶのさ
    誓った愛のしるしには ゆびに輝く小惑星

六  光の速さに乗るとすりゃ 二人はいつでも若いのさ
    そこで新婚旅行には 光子ロケットで銀河一周